スリーシェルズは、作曲家 芥川也寸志(あくたがわやすし/1925-1989)の生誕93年を記念して
芥川の作品の中でも特に高い人気を誇る「トリプティーク 第1楽章」の演奏動画を公開した。
動画URL
https://youtu.be/uhWbI1fh1Fk
この動画は、2016年7月13日 (水) 渋谷区文化総合センター大和田にて行われた
オーケストラ・トリプティーク第五回演奏会「芥川也寸志個展」におけるものであり、
常任指揮者の水戸博之とオーケストラ・トリプティークによる演奏である。
優れた演奏として高い評価を受けたものである。
来年は没30年を迎える芥川也寸志であるが、様々な団体で優れた音楽が演奏されることを祈って、動画の公開を行った。
芥川の作品の中でも特に高い人気を誇る「トリプティーク 第1楽章」の演奏動画を公開した。
動画URL
https://youtu.be/uhWbI1fh1Fk
この動画は、2016年7月13日 (水) 渋谷区文化総合センター大和田にて行われた
オーケストラ・トリプティーク第五回演奏会「芥川也寸志個展」におけるものであり、
常任指揮者の水戸博之とオーケストラ・トリプティークによる演奏である。
優れた演奏として高い評価を受けたものである。
来年は没30年を迎える芥川也寸志であるが、様々な団体で優れた音楽が演奏されることを祈って、動画の公開を行った。
芥川也寸志(あくたがわ・やすし)
芥川也寸志は、芥川龍之介の三男として東京市滝野川区(現・北区)田端に生まれ、5歳上の長兄比呂志は、俳優で演出家、3歳上の次兄多加志は、フランス語を学んだが、南方戦線で24歳の若さで戦死した。多加志は、非常に文才のあった人で、龍之介も驚嘆するような感覚の持ち主だったという。多加志との思い出は、いくつかの著作の中で述べられている。
自身が語っているように音楽の勉強を始めた時期がかなり遅く、体を壊すまでの猛勉強をし、1943年東京音楽学校予科作曲部に最下位で合格、在学中は、ウイーンで最新の音楽を学んだモダニスト橋本國彦に近代和声学と管弦楽法を、やはりウイーンに留学しF・シュミットが「日本のストラヴィスキー」と激賞したとされる早逝の作曲家細川碧と、ベルリンでヒンデミットに師事した下総皖一に対位法を学んでいる。
1944年、学徒動員で陸軍戸山学校軍楽隊に入隊、テナーサックスを担当するとともに、1級上だった團伊玖磨と軍楽隊用の音楽の編曲などを担当した。この経験が、芥川のオーケストレーションの技術、特に管楽器の使用法に十分に生かされているといえる。1945年4月、軍楽隊を首席で卒業、團は、成績は良かったが虱を沸かせて首席になれなかったと述懐している。
1945年8月、終戦により東京音楽学校に戻り、作曲科講師として招聘された伊福部昭と出会い、決定的な影響を受ける。伊福部とのエピソードは多々あり、有名なものも多いので省略するが、昭和24、5年当時の音楽専門誌を読むと、芥川を「伊福部の後継者」と評しているものもあり、これは卒業作品である『交響管弦楽のための前奏曲』(1947)等の作品の作風についてと、卓越した管弦楽法の技術についての双方からの評価であると推察される。
ただし、伊福部音楽の直接的影響は、2つ目の管弦楽作品である『交響三章』(1948)で、すでに影をひそめ、進駐軍のラジオ放送で聴いたとされ、のちにより明確となる旧ソ連の作曲家-あるいはチャイコフスキーあたりまでを含んで広くロシア音楽かもしれないが-の影響がみられる。また、当時のラジオ放送で印象に残ったものとしてフランクマルタンの「小協奏交響曲」(1945)をあげている点も興味深い。事実上の出世作はNHK放送25周年記念懸賞募集管弦楽曲に團伊玖磨『交響曲イ調』とともに特賞入賞した『交響管絃楽のための音楽』(1950)である。
芥川の音楽を味わう場合、大きくおよそ10年ずつ4つに分けるのが妥当かもしれない。
第1期にあたる『交響三章』(1948)から『子供のための交響曲「双子の星」』(1957)あたりまでは、多少の違いはあるものの『弦楽のための三楽章』(1953)にみられるような、明確なリズムと和声、のびやかで美しい旋律を特徴としたものが多く、この初期の作品の魅力に惹きこまれて芥川音楽のファンとなったものも多いのではないか。この時期の特筆すべき出来事として、映画音楽への進出(1953「煙突の見える場所」)、團伊玖磨、黛敏郎との「三人の会」の結成(1953)、『祖国の山河に』(詩:紺谷邦子)にはじまる「うたごえ運動」へのかかわり(1953)、国交がなかったソ連への密入国と『交響三章』他の初演、出版(1954)。労音アンサンブルを母体としてはじまった新交響楽団とのかかわり(1956)があげられる。
第2期にあたる『エローラ交響曲』(1958)から舞踊組曲「蜘蛛の糸」(1968)あたりまでの期間は、作風が変化し、のびやかな旋律や明快な和声は姿を消し、親しみがたいといえばよいか、難渋な印象をうける音楽が多い。きっかけとなったのは、欧州旅行の帰途立ち寄ったインドの「エローラ石窟寺院」でうけた衝撃であり、この時期を特徴づける作品としては「弦楽のための音楽1番」(1962)無伴奏合唱曲『お天道様・ねこ・プラタナス・ぼく』(1958)、『ヒロシマのオルフェ(1967改訂)(原題『暗い鏡』(1960))があげられる。
この時代は60年安保や、ベルリンの壁により東西の対立が激化してゆく時期であり、芥川自身も社会情勢に並々ならぬ関心を寄せていた。こうした社会背景も作風に影響を与えているものと推測する。
第3期は『チェロとオーケストラのための「コンチェルト・オスティナート」』(1969)から始まるが、第4期への以降を作品で区分することは難しい。第1期を思わせる明確な旋律やリズムが再び姿を見せるが、「コンチェルト・オスティナート」での独奏チェロが内面を静かに、時に激しく語るような表現は、第1期とも2期とも異なり作曲家としての円熟味を感ずる。また、明確なオスティナート主題とそれを背景にのびやかにうたわれる抒情的な旋律は、第1期に通じるが、オスティナート主題が整理され洗練されている。なお、この時期、TBSラジオ『百万人の音楽』(1967~1988)が始まっている。
第3期の作品では、ほかに『オーケストラのためのラプソディ』(1971)、『GXコンチェルト』(1974年)が同系列の作品としてあげられる。
第4期は、作風ではなくNHKの『音楽の広場』(1977~1984)が始まった1977あたりからとするのが良いかもしれない。このころより、團伊玖磨をして「文化のための壮絶な戦死」といわしめた、音楽の啓蒙活動や音楽家の権利を守るための活動、平和のための社会運動など、芥川の仕事を語るうえで外せない重要な仕事が増加してゆく。
1977年頃からはじまる音楽著作権保護のための活動、旧奏楽堂保存運動(1979~)、「反核・日本の音楽家たち」の運動(1981~)、サントリーホール(1986開館)、田園ホールエローラ(1989開館)建設のための助言、さらに、日本作曲家協議会会長、ヤマハ音楽振興会、サントリー音楽財団、日本音楽著作権協会の理事、宮城フィルハーモニー管絃楽団音楽監督、日ソ音楽家協会運営委員長などなど、芥川は多忙を極めていた。この中で、『八甲田山』『八つ墓村』(ともに1977)「鬼畜」(1978)等の映画音楽が作曲されていったのは、驚異というほかない。
特に前二者の壮大で華麗なオーケストラ音楽は、芥川のもっとも美しい音楽の一つといえる。70年代後半からは、子供のための音楽や「音楽の広場」での演奏を前提とした音楽も増えている。代表作としては、イタリア放送協会賞、エミー賞を受賞した『音楽と舞踏による映像絵巻「月」』(1981)、改作ではあるが、『オルガンとオーケストラのための「響」』、そしてなにより、完成させた最後の作品であり「伊福部昭先生の叙勲を祝う会」で演奏され敬愛してやまなかった伊福部昭にささげた『ゴジラの主題によせるバラード』(1988)は、芥川にしか書けない、いかにも芥川音楽といった傑作である。
絶筆は、鈴木行一が補作した『佛立開導日扇聖人奉讃歌“いのち”』(1988)であった。
最後に、筆者の好きな芥川の言葉の一つを引用する。
「人間は音楽なしには生きてゆけぬ。大きな悲しみに立ち向かうには、それに耐える歌がどうしても必要になるし、戦いに臨んでは勇気をかきたてる歌が、赤子を寝つかせるには子守歌がいる。人間が歌を必要とするということは、歌というものが、人間の一部を構成しているということでもある。」(第113回演奏会「新響と30年 芥川也寸志」(1986年11月)パンフレットより)文:清道洋一
芥川也寸志は、芥川龍之介の三男として東京市滝野川区(現・北区)田端に生まれ、5歳上の長兄比呂志は、俳優で演出家、3歳上の次兄多加志は、フランス語を学んだが、南方戦線で24歳の若さで戦死した。多加志は、非常に文才のあった人で、龍之介も驚嘆するような感覚の持ち主だったという。多加志との思い出は、いくつかの著作の中で述べられている。
自身が語っているように音楽の勉強を始めた時期がかなり遅く、体を壊すまでの猛勉強をし、1943年東京音楽学校予科作曲部に最下位で合格、在学中は、ウイーンで最新の音楽を学んだモダニスト橋本國彦に近代和声学と管弦楽法を、やはりウイーンに留学しF・シュミットが「日本のストラヴィスキー」と激賞したとされる早逝の作曲家細川碧と、ベルリンでヒンデミットに師事した下総皖一に対位法を学んでいる。
1944年、学徒動員で陸軍戸山学校軍楽隊に入隊、テナーサックスを担当するとともに、1級上だった團伊玖磨と軍楽隊用の音楽の編曲などを担当した。この経験が、芥川のオーケストレーションの技術、特に管楽器の使用法に十分に生かされているといえる。1945年4月、軍楽隊を首席で卒業、團は、成績は良かったが虱を沸かせて首席になれなかったと述懐している。
1945年8月、終戦により東京音楽学校に戻り、作曲科講師として招聘された伊福部昭と出会い、決定的な影響を受ける。伊福部とのエピソードは多々あり、有名なものも多いので省略するが、昭和24、5年当時の音楽専門誌を読むと、芥川を「伊福部の後継者」と評しているものもあり、これは卒業作品である『交響管弦楽のための前奏曲』(1947)等の作品の作風についてと、卓越した管弦楽法の技術についての双方からの評価であると推察される。
ただし、伊福部音楽の直接的影響は、2つ目の管弦楽作品である『交響三章』(1948)で、すでに影をひそめ、進駐軍のラジオ放送で聴いたとされ、のちにより明確となる旧ソ連の作曲家-あるいはチャイコフスキーあたりまでを含んで広くロシア音楽かもしれないが-の影響がみられる。また、当時のラジオ放送で印象に残ったものとしてフランクマルタンの「小協奏交響曲」(1945)をあげている点も興味深い。事実上の出世作はNHK放送25周年記念懸賞募集管弦楽曲に團伊玖磨『交響曲イ調』とともに特賞入賞した『交響管絃楽のための音楽』(1950)である。
芥川の音楽を味わう場合、大きくおよそ10年ずつ4つに分けるのが妥当かもしれない。
第1期にあたる『交響三章』(1948)から『子供のための交響曲「双子の星」』(1957)あたりまでは、多少の違いはあるものの『弦楽のための三楽章』(1953)にみられるような、明確なリズムと和声、のびやかで美しい旋律を特徴としたものが多く、この初期の作品の魅力に惹きこまれて芥川音楽のファンとなったものも多いのではないか。この時期の特筆すべき出来事として、映画音楽への進出(1953「煙突の見える場所」)、團伊玖磨、黛敏郎との「三人の会」の結成(1953)、『祖国の山河に』(詩:紺谷邦子)にはじまる「うたごえ運動」へのかかわり(1953)、国交がなかったソ連への密入国と『交響三章』他の初演、出版(1954)。労音アンサンブルを母体としてはじまった新交響楽団とのかかわり(1956)があげられる。
第2期にあたる『エローラ交響曲』(1958)から舞踊組曲「蜘蛛の糸」(1968)あたりまでの期間は、作風が変化し、のびやかな旋律や明快な和声は姿を消し、親しみがたいといえばよいか、難渋な印象をうける音楽が多い。きっかけとなったのは、欧州旅行の帰途立ち寄ったインドの「エローラ石窟寺院」でうけた衝撃であり、この時期を特徴づける作品としては「弦楽のための音楽1番」(1962)無伴奏合唱曲『お天道様・ねこ・プラタナス・ぼく』(1958)、『ヒロシマのオルフェ(1967改訂)(原題『暗い鏡』(1960))があげられる。
この時代は60年安保や、ベルリンの壁により東西の対立が激化してゆく時期であり、芥川自身も社会情勢に並々ならぬ関心を寄せていた。こうした社会背景も作風に影響を与えているものと推測する。
第3期は『チェロとオーケストラのための「コンチェルト・オスティナート」』(1969)から始まるが、第4期への以降を作品で区分することは難しい。第1期を思わせる明確な旋律やリズムが再び姿を見せるが、「コンチェルト・オスティナート」での独奏チェロが内面を静かに、時に激しく語るような表現は、第1期とも2期とも異なり作曲家としての円熟味を感ずる。また、明確なオスティナート主題とそれを背景にのびやかにうたわれる抒情的な旋律は、第1期に通じるが、オスティナート主題が整理され洗練されている。なお、この時期、TBSラジオ『百万人の音楽』(1967~1988)が始まっている。
第3期の作品では、ほかに『オーケストラのためのラプソディ』(1971)、『GXコンチェルト』(1974年)が同系列の作品としてあげられる。
第4期は、作風ではなくNHKの『音楽の広場』(1977~1984)が始まった1977あたりからとするのが良いかもしれない。このころより、團伊玖磨をして「文化のための壮絶な戦死」といわしめた、音楽の啓蒙活動や音楽家の権利を守るための活動、平和のための社会運動など、芥川の仕事を語るうえで外せない重要な仕事が増加してゆく。
1977年頃からはじまる音楽著作権保護のための活動、旧奏楽堂保存運動(1979~)、「反核・日本の音楽家たち」の運動(1981~)、サントリーホール(1986開館)、田園ホールエローラ(1989開館)建設のための助言、さらに、日本作曲家協議会会長、ヤマハ音楽振興会、サントリー音楽財団、日本音楽著作権協会の理事、宮城フィルハーモニー管絃楽団音楽監督、日ソ音楽家協会運営委員長などなど、芥川は多忙を極めていた。この中で、『八甲田山』『八つ墓村』(ともに1977)「鬼畜」(1978)等の映画音楽が作曲されていったのは、驚異というほかない。
特に前二者の壮大で華麗なオーケストラ音楽は、芥川のもっとも美しい音楽の一つといえる。70年代後半からは、子供のための音楽や「音楽の広場」での演奏を前提とした音楽も増えている。代表作としては、イタリア放送協会賞、エミー賞を受賞した『音楽と舞踏による映像絵巻「月」』(1981)、改作ではあるが、『オルガンとオーケストラのための「響」』、そしてなにより、完成させた最後の作品であり「伊福部昭先生の叙勲を祝う会」で演奏され敬愛してやまなかった伊福部昭にささげた『ゴジラの主題によせるバラード』(1988)は、芥川にしか書けない、いかにも芥川音楽といった傑作である。
絶筆は、鈴木行一が補作した『佛立開導日扇聖人奉讃歌“いのち”』(1988)であった。
最後に、筆者の好きな芥川の言葉の一つを引用する。
「人間は音楽なしには生きてゆけぬ。大きな悲しみに立ち向かうには、それに耐える歌がどうしても必要になるし、戦いに臨んでは勇気をかきたてる歌が、赤子を寝つかせるには子守歌がいる。人間が歌を必要とするということは、歌というものが、人間の一部を構成しているということでもある。」(第113回演奏会「新響と30年 芥川也寸志」(1986年11月)パンフレットより)文:清道洋一
プロフィール
オーケストラ・トリプティーク
2012年、旧奏楽堂にて日本の弦楽オーケストラ曲を集めて第1回コンサートを開催して評価を受ける。第2回、第3回演奏会は、朝日新聞文化財団の助成を受け浜離宮朝日ホー ル(朝日新聞社内)で開催し、いずれもCD化され新聞、音楽誌他で好評を得た。2014年は伊福部昭百年紀の公式オーケストラとして、NHKや新聞の取材 も受け、3回の公演を成功に導く。2015年は、生誕90年の作曲家特集として、芥川也寸志と渡辺宙明の個展を開催して好評を得る。フルオーケストラ、弦楽オーケストラ、アンサンブル、小編成まで様々な形態で日本の作曲家の音楽をアーカイヴすべく活動している。リリースされたCDは11枚。タワー・レコード やamazonのチャートで1位も記録している。
トリプティーク(三連画)とは、前衛、近現代音楽、映像音楽という三本の柱を持ち活動する意思の表明でもある。http://3s-ca.jimdo.com/
水戸博之 MITO Hiroyuki 常任指揮者
1988年、江別市出身。北海道立大麻高等学校を経て東京音楽大学、 及び同大学大学院作曲指揮科(指揮)を卒業。在学中の6年間、給費特待奨学生に選ばれる。これまでに指揮を広上淳一、汐澤安彦、田代俊文、加納明洋、三河正典、ピアノを奥山優香、北島公彦、米田栄子、野田清隆、音楽理論を伊左治直の各氏に師事。2010年、サントリーホール主催レインボウ21デビューコンサート出演。 2012年、東総文化会館「東総の第九」にて東京音楽大学シンフォニーオーケストラを指揮。井上道義、及び下野竜也両氏によるマスタークラスを受講し、いずれも優秀者に選出され、オーケストラアンサンブル金沢、金沢大学フィルハーモニー管弦楽団、上野学園大学管弦楽団を指揮する。
また、東京混声合唱団の合唱指揮者としてNHK交響楽団、東京フィルハーモニー交響楽団定期演奏会に出演する他、同合唱団の文化庁主催による巡回公演を指揮。その他、日生劇場、及び藤原歌劇団のオペラ公演に副指揮者として携わる。現在、オーケストラトリプティーク常任指揮者。京都市ジュニアオーケストラ、及び八王子ユース弦楽アンサンブルにてアシスタントコンダクターを務める。2015年4月、東京混声合唱団コンダクター・イン・レジデンスに就任。
三宅政弘 MIYAKE Masahiro コンサートマスター
兵庫県立西宮高等学校音楽科卒業。東京音楽大学卒業。全日本学生音楽コンクールヴァイオリン部門大阪大会高校の部 第一位。江藤俊哉ヴァイオリンコンクールヤングアーティスト部門第三位。東京音楽大学コンクール第三位。桐朋祭超絶技巧選手権ヴァイオリン部門グランプリ受賞。2009年9月、2011年1月にソロリサイタルを開催し、好評を博す。これまでに、竹本洋、後藤維都江、山本彰、辻井淳、東儀幸、田中千香士、海野義雄、横山俊朗の各氏に師事。
オーケストラ・トリプティーク
2012年、旧奏楽堂にて日本の弦楽オーケストラ曲を集めて第1回コンサートを開催して評価を受ける。第2回、第3回演奏会は、朝日新聞文化財団の助成を受け浜離宮朝日ホー ル(朝日新聞社内)で開催し、いずれもCD化され新聞、音楽誌他で好評を得た。2014年は伊福部昭百年紀の公式オーケストラとして、NHKや新聞の取材 も受け、3回の公演を成功に導く。2015年は、生誕90年の作曲家特集として、芥川也寸志と渡辺宙明の個展を開催して好評を得る。フルオーケストラ、弦楽オーケストラ、アンサンブル、小編成まで様々な形態で日本の作曲家の音楽をアーカイヴすべく活動している。リリースされたCDは11枚。タワー・レコード やamazonのチャートで1位も記録している。
トリプティーク(三連画)とは、前衛、近現代音楽、映像音楽という三本の柱を持ち活動する意思の表明でもある。http://3s-ca.jimdo.com/
水戸博之 MITO Hiroyuki 常任指揮者
1988年、江別市出身。北海道立大麻高等学校を経て東京音楽大学、 及び同大学大学院作曲指揮科(指揮)を卒業。在学中の6年間、給費特待奨学生に選ばれる。これまでに指揮を広上淳一、汐澤安彦、田代俊文、加納明洋、三河正典、ピアノを奥山優香、北島公彦、米田栄子、野田清隆、音楽理論を伊左治直の各氏に師事。2010年、サントリーホール主催レインボウ21デビューコンサート出演。 2012年、東総文化会館「東総の第九」にて東京音楽大学シンフォニーオーケストラを指揮。井上道義、及び下野竜也両氏によるマスタークラスを受講し、いずれも優秀者に選出され、オーケストラアンサンブル金沢、金沢大学フィルハーモニー管弦楽団、上野学園大学管弦楽団を指揮する。
また、東京混声合唱団の合唱指揮者としてNHK交響楽団、東京フィルハーモニー交響楽団定期演奏会に出演する他、同合唱団の文化庁主催による巡回公演を指揮。その他、日生劇場、及び藤原歌劇団のオペラ公演に副指揮者として携わる。現在、オーケストラトリプティーク常任指揮者。京都市ジュニアオーケストラ、及び八王子ユース弦楽アンサンブルにてアシスタントコンダクターを務める。2015年4月、東京混声合唱団コンダクター・イン・レジデンスに就任。
三宅政弘 MIYAKE Masahiro コンサートマスター
兵庫県立西宮高等学校音楽科卒業。東京音楽大学卒業。全日本学生音楽コンクールヴァイオリン部門大阪大会高校の部 第一位。江藤俊哉ヴァイオリンコンクールヤングアーティスト部門第三位。東京音楽大学コンクール第三位。桐朋祭超絶技巧選手権ヴァイオリン部門グランプリ受賞。2009年9月、2011年1月にソロリサイタルを開催し、好評を博す。これまでに、竹本洋、後藤維都江、山本彰、辻井淳、東儀幸、田中千香士、海野義雄、横山俊朗の各氏に師事。
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