2014年6月19日、モデナ 発 ―マセラティ創業100周年を記念する特別展示が、イタリアのモデナで開幕しました。「マセラティ100-純粋なるイタリアン ラグジュアリー スポーツカーの世紀」は、トライデントブランドの血統から生まれた最も偉大なロードカーおよびレーシングカーを展示し、イタリア純血の自動車メーカーの歴史を振り返ります。さらに19台のプロジェクターを用いた極めて魅力的な演出により、訪れた人々はマセラティの歴史の最も偉大な瞬間を追体験し、その歴史を形作った人々について知ることができます。この特別展示は、ヴィアーレ・チーロ・メノッティのマセラティ本社からすぐ近くにある、未来的な建築デザインで知られる「エンツォ・フェラーリ・ミュージアム(MEF)」を会場として2015年1月まで開催されます。展示されるモデルの歴史的価値からも、これは、今までに世界各地で催されてきたマセラティ車の展示の中でも類を見ない規模とクオリティを誇ります。
開会式には、マセラティCEOのハラルド・ウェスターとフェラーリ会長のルカ・コルデーロ・ディ・モンテゼーモロが出席。さらに、エットーレ・マセラティとエルネスト・マセラティの息子であり従弟同士のカルロとアルフィエーリも臨席しました。エットーレとエルネストの兄弟が、長兄のアルフィエーリと共に1914年に設立した会社は、幾度もの試練と曲折を乗り越えて100年の道程を歩んでまいりました。開会式の主賓には、1950年代にマセラティを駆り、トライデントブランドのために数多くの輝かしい勝利を収めた伝説のレーシングドライバー、サー・スターリング・モスが招かれました。展示会の責任者は、1937年から1967年までマセラティのオーナーであったアドルフォ・オルシとオメール・オルシ親子の孫であり息子であるアドルフォ・オルシ・JRです。マセラティ側では、マセラティの広報担当ディレクターのルカ・ダル・モンテが担当しました。展示会は、「エンツォ・フェラーリ・ミュージアム」およびマラネロの「フェラーリ・ミュージアム」のディレクターを務めるアントニオ・ギーニの監督と指導の下に運営されます。
開催期間中、マセラティを代表する21台のモデルが常設展示され、6カ月間で合計約30台を公開いたします。10台程度の車を入れ替えながら展示するため、世界中の各地で開かれる数々のマセラティ創業100周年記念イベントに、その中の一部を出展することができます。
また、この展示会場は、モデナ生まれの伝説的自動車メーカーの発祥の地として、その創業者であるエンツォ・フェラーリを記念するために建てられたミュージアムです。来館者はこの機会を利用して、戦前のフェラーリの貴重なモデルやアルファロメオの歴史的なレーシングカーなど、フェラーリ自身が運転したり、今日でも彼の名を冠するレーシングチームによって国際レースに出場した車を見ることもできます。これらの展示は、エンツォの父親が19世紀末から亡くなるまで働いた大きな作業場の中に設けられています。そして現在この場所は、ミュージアム展示スペースの別館となっています。
開会式でマセラティCEOのハラルド・ウェスターは次のように述べています:
マセラティ創業100周年は、私たちの歴史の中で最良の時に巡ってきました。なぜなら、今日マセラティは大きく業績を伸ばし、今までにないほど増えているマセラティファンの方々からニューモデルは高い人気を博しているからです。私たちが設定した輝かしい目標に向けて躍進している現在、私たちの最初の100年の歴史を振り返るこの展示は、まさに絶好の機会であり、私たちの歴史を形作ってきたすべてのモデルが、こうして一つ屋根の下に集うことは今までありませんでした。
15年前のマセラティ復活において極めて重要な役割を果たしたフェラーリ会長のルカ・ディ・モンテゼーモロはこう語りました:
本日は、私にとって二重の意義があります。私は、1997年にマセラティが経営危機に陥ったまま放置されていた時の状況をはっきりと思い出すことができます。そして私は、マラネロのチームと一緒にマセラティを再生するという挑戦を受けて立ちました。私たちは、生産設備を6カ月間閉鎖して、改修と事業の再構築を行い、新たな本社と大規模で壮麗なショールームを建設しました。そして何よりも、私たちはニューモデルのデザインと生産に取りかかりました。その中で、現在の成功をとりわけ体現しているのが、2003年のクアトロポルテです。このサクセスストーリーに続き、現在、フェラーリはこの重要なミュージアムを運営しています。ここは、真の夢にあふれた車を作るというイタリアの自動車メーカーが持ち続けてきた類まれな能力を全世界に示すことに貢献しています。
展示車の選択を任されている展示責任者のアドルフォ・オルシは、自身の選択基準を次のように説明しています:
マセラティの長い歴史を形作ってきた数多くのレーシングカーとロードカーの中から選ぶのは困難な作業です。そこで私は、あらゆる自動車愛好家にとっての『夢のガレージ』を想像しようと努め、単に技術とスタイルに関して最高の車だけではなく、最も重要で歴史的に意義のあるモデルも選ぶようにしました。そして、幸運にも、献身的に協力してくれる収集家たちに出会うことができ、彼らは、自らの車を貸し出すことを快諾してくれました。その中の何台かは、ヨーロッパで見つけることが事実上不可能であり、大西洋の向こう側からここまで空輸されてきました。
そのおかげで、特別展示「マセラティ100」ではマセラティの歴史の中で最も重要な名車が揃うと言っても過言ではありません。
展示車の共通点は、どれも他には類を見ないマセラティ独自のスタイルがあるということです。現在、フィアット・クライスラー・オートモービルズ(FCA)とマセラティのスタイル・センターを率い、マセラティの最新プロジェクトに影響を与えているロレンツォ・ラマチョッティは、トライデントブランドが取り組んできたスタイルの遍歴の独創性と創造性を次のように強調しました。これは今回の展示車にも表れているものです:
マセラティのような高級車にとって、スタイルはスピードやパワーと共に成功の重要な要素であり続けてきました。マセラティはイタリア人デザイナーを採用して、彼らに自由に仕事をさせました。その結果、ここに展示されているモデルを通じて、優れた創造的才能を最大限に発揮したデザイナーたちの真の作品集を見ることができます。ピニンファリーナから、ツーリング、フルア、ベルトーネ、ギア、ジウジアーロ、ヴィニャーレ、そしてザガートに至るまで、いずれも記憶に残るモデルによってマセラティの普遍的な美の伝統に貢献してきました。今日、マセラティ・スタイル・センターは、100年の栄光の歴史に伴う責任を十分に自覚しながら、大いなる情熱をもって最上のイタリアンスタイルの伝統を継承することを誇りに思います。
このマセラティ展は、2つのマセラティ・スピリットを包含しています。マセラティはまず「スポーツ」に軸足を置き、1920年初頭から1950年代末までの期間を特徴づけていたこと。それに続く次の期間はロードカーへと焦点を移し、自動車メーカーとしての時代を迎えました。
展示の第一の目玉をあげるならティーポ26でしょう。マセラティブランドを初めて世界に周知せしめた記念の車です。そしてバコニン・ボルザッキーニによって1929年に世界速度記録を樹立したV4スポーツ ザガートがあります。1934年にザガートによってリボディされ、『コンコルソ・デレガンツァ・ヴィラ・デステ 2014』では1位に選ばれました。もちろん、伝説のマセラティ250Fがなくては、展示は完全なものにならなかったでしょう。この車は、ドライバーにファン・マヌエル・ファンジオを得て、1954年と1957年のF1世界選手権で優勝しました。1957年、ニュルブルクリンク・サーキットで開催されたドイツGPにおいて、このアルゼンチンのエースは、後世に語り継がれる見事な逆転優勝を果たし、この驚くべきフォーミュラ・ワンは1950年代にマセラティが伝説的名声を築き上げることに貢献したのです。
開会式に出席したスターリング・モスは、この特別なレーシングカーと、彼のキャリアの中でも最高の勝利を何度も飾っています。その例が、1956年のイタリアGPとモナコGPです。そしてもちろん、モスが駆ったもうひとつの車としてティーポ60“バードケージ”を挙げないわけにはいきません。この有名なフロントエンジンの2シーター・スポーツレーシングカーは、イタリアからのレーシングカー用シャシーの絶え間ない進化に対する独創的な回答でもありました。多数の細い鋼管を溶接することで、高い剛性を確保しながら軽量なシャシーを作り上げたのです。1959年以降、多くのプライベート・レーシングチームによってサーキットで使用され、幾多の勝利を挙げてマセラティに名声をもたらしました。
展示されるロードカーの中には、わずかな台数しか生産されなかったものの、伝統の職人技が光る、1947年にマセラティ初のロードカーとなったA6 1500があります。ボディのスタイリングはピニンファリーナが担当し、レーシングエンジンを中心に製造されました。この初めての試みは、一種の総合リハーサルとして、モデナの会社の未来を暗示していました。さらに年代を大きく進めると、初のグラントゥーリズモとなる1957年の3500 GTがあります。この車は、自動車の歴史に名を残すことになるマセラティの他の重要なクーペとスパイダーの先駆けとなりました。かつてフェデリコ・フェリーニお気に入りのイタリア人俳優マルチェロ・マストロヤンニが所有していた“世界最速サルーン”の最初のシリーズとなる1965年のクアトロポルテも、そうした先駆的モデルのひとつです。
エンツォ・フェラーリによって命名されたミュージアムの館長であるアントニオ・ギーニは、次のように述べています:
エンツォ・フェラーリに捧げられたミュージアムにおいて、マセラティの100周年を記念する展示会を行うことは、何ら驚くことではありません。実際にマセラティが存在しなければ、ライバルのプレッシャーによってフェラーリが駆り立てられることもありませんでした。つまりこの競争が、今日広く認められているフェラーリのサクセスストーリーを築き上げる原動力になったのです。実際、1930年代にエンツォ・フェラーリがレーシングドライバーだったときにも、傍らにはマセラティがありました。フェラーリがモーター・レーシングチームとともにアルファロメオと戦ったとき、マセラティは最大のライバルでした。フェラーリは、レーシングカーのシンボルにトライデントを選んだ、このボローニャ出身の兄弟の技術的な才能を知り尽くしていました。しかしこの2つの企業のライバル関係の実際の口火を切ったのは、オルシファミリーの買収により、ボローニャを拠点とするマセラティがモデナに移転したことでした。1939年と1940年に、マセラティが世界で最も有名なレースであるインディアナポリス500で優勝を飾ったとき、将来のライバルであるフェラーリは、まだ最初の車である815の製造に追われ、しかもこのモデルには、フェラーリの名前もまだ付けられていませんでした。戦後になってトライデントと跳ね馬は激戦を交えることになります。ドライバーについても同様で、ファンジオは、フェラーリとマセラティの両方でF1ワールドチャンピオンとなりました。このライバル関係はロードにも継続し、グラントゥーリズモの素晴しいモデルの設計と製造が、わずか数キロを隔てたモデナとマラネロで行われました。モデナとイタリアをモータースポーツの世界基準にしたこのエキサイティングな挑戦は、1960年代に終焉します。強力なフィアットグループのバックアップを得て創業者の管理下にしっかりと留まっていたフェラーリに対し、マセラティは所有者の変更が重なり、レースへの参戦を断念して、市場のポジショニングにおいて異なる戦略を採用します。貴重なトライデントブランドの“復興”は、フィアットグループによるマセラティの買収と、長きにわたりライバル関係にあった他ならぬフェラーリへの委託による綿密は再生計画によって、1990年代に行われました。2003年のクアトロポルテの発売は、本日、創業100周年を祝うこの卓越したブランドの新たな出発を予告しており、本展示会では、マセラティの中でも最も重要で意義のあるモデルが紹介されています。
また1914年にアルフィエーリと一緒に仕事をしたエットーレの息子であるカルロ・マセラティは開会式に出席して、次のようにコメントしています:
叔父のアルフィエーリがワークショップ付きのガレージ「ソシエータ・アノニーマ・オフィチーネ・アルフィエーリ・マセラティ」を創立してから100年、そして長男のカルロが1898年に弱冠17歳で、彼自身が自宅で設計、製造したエンジンを搭載したバイクを製作してから116年が経ちました。カルロの業績は、他の兄弟の情熱の火付け役となり、彼の後に続くことを促しました。トライデントブランドとOSCA社が約70年間にわたって築き上げた技術とモータースポーツにおける成功は周知の通りです。ファミリー内の調和した関係と、わずか6カ月間の作業でレーシングカーを製造する技術手腕は、この長い熟成期間に帰するものと思われます。父のエットーレと叔父のビンド、エルネスト、マリオをしのんで、マセラティの存続と新しい目標のために尽力いただいているすべての方々に、心よりお礼を申し上げます。
エルネストの息子のアルフィエーリ・マセラティは次のことを記憶に留めています:
マセラティの創業者である叔父のアルフィエーリの進取の気性と類まれな才能から生まれたこの会社は、1914年に「ソシエータ・アノニーマ・オフィチーネ・アルフィエーリ・マセラティ」として創立し、1932年3月の彼の早過ぎる死の後も、兄弟の決断と大きな個人的犠牲によって歩み続けました。私も、一番下の弟であった父のエルネスト・マセラティの見事な設計と技能について述べなければなりません。当時、兄弟はグランプリカーと“ヴォワチュレット”の2つの素晴しいレーシングカーのシリーズと、13個の国際スピード記録を同時に打ち立てた記録破りの自動車を製造しました。1947年にマセラティ兄弟が会社を去った後は、他の人々が彼らの仕事を引き継いで成功に導きました。そしてフィアットグループの買収により、マセラティは品質と販売で発展を続け、今日のような揺るぎない地位を確立することができました。喜ばしいことにマセラティはこうした成功の最中に100周年を迎えることができました。会社の創立から100年後にマセラティで働くすべての人々の大変な努力、責任、そして熱意は、本当に称賛に値すると思います。創業者の精神は今も生き続けています。
マセラティ兄弟は、最終的に会社をアドルフォとオメールのオルシファミリーに売却しました。祖父に因んで名付けられたアドルフォ・オルシ・JRにとって、100周年は特別な意味があります:
前世紀の初めの20年に創設された多くの自動車メーカーのうち、今日も存続しているのは数社で、さらにマセラティと同じ水準の名声と伝統を保持する企業はごくわずかしかありません。ボローニャから、エンジンへの情熱を持ったマセラティ兄弟によってこの伝説は始まりました。カルロと創業者のアルフィエーリの早過ぎる死も、ビンド、エルネスト、エットーレの兄弟を留めることはなく、彼らは絶対的な献身と技術革新の際限のない追求をバネにして、会社の継続のために奮闘しました。1937年に私の祖父のアドルフォが経営を引き継ぎ、1939/1940年に工場をモデナに移転しました。マセラティは戦略を変更し、世界中のサーキットで勝ち続けながら、GT部門で最も有名なブランドのひとつになりました。国王、偉大な企業家、芸能界やスポーツ界の著名人がこぞってマセラティを購入しました。いくつかの幸運を享受した時代を経て、フィアットはマセラティに非常に魅力的なモデルレンジという新しい息吹を注ぎ込みました。そして、今後もさらなる発展が計画されています。特別展示「マセラティ100」がモデナで開催されることは偶然の一致ではありません。マセラティは75年間もここを拠点としてきました。そして何世代ものモデナの人々が、エネルギーと創造性をマセラティに与えてきました。もちろん有名なドライバーとエンジニアも、この伝説のオーラに貢献してきましたが、数え切れないほどの従業員とメカニックも、この会社のために誇りをもって彼らの能力を捧げてきました。私の祖父と父は、最愛のマセラティが今も存続し、わずかな自動車メーカーしか到達することができない金字塔を本日祝うことができることを誇りに思っていることでしょう。
<お問い合わせ先>
マセラティ コールセンター 0120-965-120
開会式には、マセラティCEOのハラルド・ウェスターとフェラーリ会長のルカ・コルデーロ・ディ・モンテゼーモロが出席。さらに、エットーレ・マセラティとエルネスト・マセラティの息子であり従弟同士のカルロとアルフィエーリも臨席しました。エットーレとエルネストの兄弟が、長兄のアルフィエーリと共に1914年に設立した会社は、幾度もの試練と曲折を乗り越えて100年の道程を歩んでまいりました。開会式の主賓には、1950年代にマセラティを駆り、トライデントブランドのために数多くの輝かしい勝利を収めた伝説のレーシングドライバー、サー・スターリング・モスが招かれました。展示会の責任者は、1937年から1967年までマセラティのオーナーであったアドルフォ・オルシとオメール・オルシ親子の孫であり息子であるアドルフォ・オルシ・JRです。マセラティ側では、マセラティの広報担当ディレクターのルカ・ダル・モンテが担当しました。展示会は、「エンツォ・フェラーリ・ミュージアム」およびマラネロの「フェラーリ・ミュージアム」のディレクターを務めるアントニオ・ギーニの監督と指導の下に運営されます。
開催期間中、マセラティを代表する21台のモデルが常設展示され、6カ月間で合計約30台を公開いたします。10台程度の車を入れ替えながら展示するため、世界中の各地で開かれる数々のマセラティ創業100周年記念イベントに、その中の一部を出展することができます。
また、この展示会場は、モデナ生まれの伝説的自動車メーカーの発祥の地として、その創業者であるエンツォ・フェラーリを記念するために建てられたミュージアムです。来館者はこの機会を利用して、戦前のフェラーリの貴重なモデルやアルファロメオの歴史的なレーシングカーなど、フェラーリ自身が運転したり、今日でも彼の名を冠するレーシングチームによって国際レースに出場した車を見ることもできます。これらの展示は、エンツォの父親が19世紀末から亡くなるまで働いた大きな作業場の中に設けられています。そして現在この場所は、ミュージアム展示スペースの別館となっています。
開会式でマセラティCEOのハラルド・ウェスターは次のように述べています:
マセラティ創業100周年は、私たちの歴史の中で最良の時に巡ってきました。なぜなら、今日マセラティは大きく業績を伸ばし、今までにないほど増えているマセラティファンの方々からニューモデルは高い人気を博しているからです。私たちが設定した輝かしい目標に向けて躍進している現在、私たちの最初の100年の歴史を振り返るこの展示は、まさに絶好の機会であり、私たちの歴史を形作ってきたすべてのモデルが、こうして一つ屋根の下に集うことは今までありませんでした。
15年前のマセラティ復活において極めて重要な役割を果たしたフェラーリ会長のルカ・ディ・モンテゼーモロはこう語りました:
本日は、私にとって二重の意義があります。私は、1997年にマセラティが経営危機に陥ったまま放置されていた時の状況をはっきりと思い出すことができます。そして私は、マラネロのチームと一緒にマセラティを再生するという挑戦を受けて立ちました。私たちは、生産設備を6カ月間閉鎖して、改修と事業の再構築を行い、新たな本社と大規模で壮麗なショールームを建設しました。そして何よりも、私たちはニューモデルのデザインと生産に取りかかりました。その中で、現在の成功をとりわけ体現しているのが、2003年のクアトロポルテです。このサクセスストーリーに続き、現在、フェラーリはこの重要なミュージアムを運営しています。ここは、真の夢にあふれた車を作るというイタリアの自動車メーカーが持ち続けてきた類まれな能力を全世界に示すことに貢献しています。
展示車の選択を任されている展示責任者のアドルフォ・オルシは、自身の選択基準を次のように説明しています:
マセラティの長い歴史を形作ってきた数多くのレーシングカーとロードカーの中から選ぶのは困難な作業です。そこで私は、あらゆる自動車愛好家にとっての『夢のガレージ』を想像しようと努め、単に技術とスタイルに関して最高の車だけではなく、最も重要で歴史的に意義のあるモデルも選ぶようにしました。そして、幸運にも、献身的に協力してくれる収集家たちに出会うことができ、彼らは、自らの車を貸し出すことを快諾してくれました。その中の何台かは、ヨーロッパで見つけることが事実上不可能であり、大西洋の向こう側からここまで空輸されてきました。
そのおかげで、特別展示「マセラティ100」ではマセラティの歴史の中で最も重要な名車が揃うと言っても過言ではありません。
展示車の共通点は、どれも他には類を見ないマセラティ独自のスタイルがあるということです。現在、フィアット・クライスラー・オートモービルズ(FCA)とマセラティのスタイル・センターを率い、マセラティの最新プロジェクトに影響を与えているロレンツォ・ラマチョッティは、トライデントブランドが取り組んできたスタイルの遍歴の独創性と創造性を次のように強調しました。これは今回の展示車にも表れているものです:
マセラティのような高級車にとって、スタイルはスピードやパワーと共に成功の重要な要素であり続けてきました。マセラティはイタリア人デザイナーを採用して、彼らに自由に仕事をさせました。その結果、ここに展示されているモデルを通じて、優れた創造的才能を最大限に発揮したデザイナーたちの真の作品集を見ることができます。ピニンファリーナから、ツーリング、フルア、ベルトーネ、ギア、ジウジアーロ、ヴィニャーレ、そしてザガートに至るまで、いずれも記憶に残るモデルによってマセラティの普遍的な美の伝統に貢献してきました。今日、マセラティ・スタイル・センターは、100年の栄光の歴史に伴う責任を十分に自覚しながら、大いなる情熱をもって最上のイタリアンスタイルの伝統を継承することを誇りに思います。
このマセラティ展は、2つのマセラティ・スピリットを包含しています。マセラティはまず「スポーツ」に軸足を置き、1920年初頭から1950年代末までの期間を特徴づけていたこと。それに続く次の期間はロードカーへと焦点を移し、自動車メーカーとしての時代を迎えました。
展示の第一の目玉をあげるならティーポ26でしょう。マセラティブランドを初めて世界に周知せしめた記念の車です。そしてバコニン・ボルザッキーニによって1929年に世界速度記録を樹立したV4スポーツ ザガートがあります。1934年にザガートによってリボディされ、『コンコルソ・デレガンツァ・ヴィラ・デステ 2014』では1位に選ばれました。もちろん、伝説のマセラティ250Fがなくては、展示は完全なものにならなかったでしょう。この車は、ドライバーにファン・マヌエル・ファンジオを得て、1954年と1957年のF1世界選手権で優勝しました。1957年、ニュルブルクリンク・サーキットで開催されたドイツGPにおいて、このアルゼンチンのエースは、後世に語り継がれる見事な逆転優勝を果たし、この驚くべきフォーミュラ・ワンは1950年代にマセラティが伝説的名声を築き上げることに貢献したのです。
開会式に出席したスターリング・モスは、この特別なレーシングカーと、彼のキャリアの中でも最高の勝利を何度も飾っています。その例が、1956年のイタリアGPとモナコGPです。そしてもちろん、モスが駆ったもうひとつの車としてティーポ60“バードケージ”を挙げないわけにはいきません。この有名なフロントエンジンの2シーター・スポーツレーシングカーは、イタリアからのレーシングカー用シャシーの絶え間ない進化に対する独創的な回答でもありました。多数の細い鋼管を溶接することで、高い剛性を確保しながら軽量なシャシーを作り上げたのです。1959年以降、多くのプライベート・レーシングチームによってサーキットで使用され、幾多の勝利を挙げてマセラティに名声をもたらしました。
展示されるロードカーの中には、わずかな台数しか生産されなかったものの、伝統の職人技が光る、1947年にマセラティ初のロードカーとなったA6 1500があります。ボディのスタイリングはピニンファリーナが担当し、レーシングエンジンを中心に製造されました。この初めての試みは、一種の総合リハーサルとして、モデナの会社の未来を暗示していました。さらに年代を大きく進めると、初のグラントゥーリズモとなる1957年の3500 GTがあります。この車は、自動車の歴史に名を残すことになるマセラティの他の重要なクーペとスパイダーの先駆けとなりました。かつてフェデリコ・フェリーニお気に入りのイタリア人俳優マルチェロ・マストロヤンニが所有していた“世界最速サルーン”の最初のシリーズとなる1965年のクアトロポルテも、そうした先駆的モデルのひとつです。
エンツォ・フェラーリによって命名されたミュージアムの館長であるアントニオ・ギーニは、次のように述べています:
エンツォ・フェラーリに捧げられたミュージアムにおいて、マセラティの100周年を記念する展示会を行うことは、何ら驚くことではありません。実際にマセラティが存在しなければ、ライバルのプレッシャーによってフェラーリが駆り立てられることもありませんでした。つまりこの競争が、今日広く認められているフェラーリのサクセスストーリーを築き上げる原動力になったのです。実際、1930年代にエンツォ・フェラーリがレーシングドライバーだったときにも、傍らにはマセラティがありました。フェラーリがモーター・レーシングチームとともにアルファロメオと戦ったとき、マセラティは最大のライバルでした。フェラーリは、レーシングカーのシンボルにトライデントを選んだ、このボローニャ出身の兄弟の技術的な才能を知り尽くしていました。しかしこの2つの企業のライバル関係の実際の口火を切ったのは、オルシファミリーの買収により、ボローニャを拠点とするマセラティがモデナに移転したことでした。1939年と1940年に、マセラティが世界で最も有名なレースであるインディアナポリス500で優勝を飾ったとき、将来のライバルであるフェラーリは、まだ最初の車である815の製造に追われ、しかもこのモデルには、フェラーリの名前もまだ付けられていませんでした。戦後になってトライデントと跳ね馬は激戦を交えることになります。ドライバーについても同様で、ファンジオは、フェラーリとマセラティの両方でF1ワールドチャンピオンとなりました。このライバル関係はロードにも継続し、グラントゥーリズモの素晴しいモデルの設計と製造が、わずか数キロを隔てたモデナとマラネロで行われました。モデナとイタリアをモータースポーツの世界基準にしたこのエキサイティングな挑戦は、1960年代に終焉します。強力なフィアットグループのバックアップを得て創業者の管理下にしっかりと留まっていたフェラーリに対し、マセラティは所有者の変更が重なり、レースへの参戦を断念して、市場のポジショニングにおいて異なる戦略を採用します。貴重なトライデントブランドの“復興”は、フィアットグループによるマセラティの買収と、長きにわたりライバル関係にあった他ならぬフェラーリへの委託による綿密は再生計画によって、1990年代に行われました。2003年のクアトロポルテの発売は、本日、創業100周年を祝うこの卓越したブランドの新たな出発を予告しており、本展示会では、マセラティの中でも最も重要で意義のあるモデルが紹介されています。
また1914年にアルフィエーリと一緒に仕事をしたエットーレの息子であるカルロ・マセラティは開会式に出席して、次のようにコメントしています:
叔父のアルフィエーリがワークショップ付きのガレージ「ソシエータ・アノニーマ・オフィチーネ・アルフィエーリ・マセラティ」を創立してから100年、そして長男のカルロが1898年に弱冠17歳で、彼自身が自宅で設計、製造したエンジンを搭載したバイクを製作してから116年が経ちました。カルロの業績は、他の兄弟の情熱の火付け役となり、彼の後に続くことを促しました。トライデントブランドとOSCA社が約70年間にわたって築き上げた技術とモータースポーツにおける成功は周知の通りです。ファミリー内の調和した関係と、わずか6カ月間の作業でレーシングカーを製造する技術手腕は、この長い熟成期間に帰するものと思われます。父のエットーレと叔父のビンド、エルネスト、マリオをしのんで、マセラティの存続と新しい目標のために尽力いただいているすべての方々に、心よりお礼を申し上げます。
エルネストの息子のアルフィエーリ・マセラティは次のことを記憶に留めています:
マセラティの創業者である叔父のアルフィエーリの進取の気性と類まれな才能から生まれたこの会社は、1914年に「ソシエータ・アノニーマ・オフィチーネ・アルフィエーリ・マセラティ」として創立し、1932年3月の彼の早過ぎる死の後も、兄弟の決断と大きな個人的犠牲によって歩み続けました。私も、一番下の弟であった父のエルネスト・マセラティの見事な設計と技能について述べなければなりません。当時、兄弟はグランプリカーと“ヴォワチュレット”の2つの素晴しいレーシングカーのシリーズと、13個の国際スピード記録を同時に打ち立てた記録破りの自動車を製造しました。1947年にマセラティ兄弟が会社を去った後は、他の人々が彼らの仕事を引き継いで成功に導きました。そしてフィアットグループの買収により、マセラティは品質と販売で発展を続け、今日のような揺るぎない地位を確立することができました。喜ばしいことにマセラティはこうした成功の最中に100周年を迎えることができました。会社の創立から100年後にマセラティで働くすべての人々の大変な努力、責任、そして熱意は、本当に称賛に値すると思います。創業者の精神は今も生き続けています。
マセラティ兄弟は、最終的に会社をアドルフォとオメールのオルシファミリーに売却しました。祖父に因んで名付けられたアドルフォ・オルシ・JRにとって、100周年は特別な意味があります:
前世紀の初めの20年に創設された多くの自動車メーカーのうち、今日も存続しているのは数社で、さらにマセラティと同じ水準の名声と伝統を保持する企業はごくわずかしかありません。ボローニャから、エンジンへの情熱を持ったマセラティ兄弟によってこの伝説は始まりました。カルロと創業者のアルフィエーリの早過ぎる死も、ビンド、エルネスト、エットーレの兄弟を留めることはなく、彼らは絶対的な献身と技術革新の際限のない追求をバネにして、会社の継続のために奮闘しました。1937年に私の祖父のアドルフォが経営を引き継ぎ、1939/1940年に工場をモデナに移転しました。マセラティは戦略を変更し、世界中のサーキットで勝ち続けながら、GT部門で最も有名なブランドのひとつになりました。国王、偉大な企業家、芸能界やスポーツ界の著名人がこぞってマセラティを購入しました。いくつかの幸運を享受した時代を経て、フィアットはマセラティに非常に魅力的なモデルレンジという新しい息吹を注ぎ込みました。そして、今後もさらなる発展が計画されています。特別展示「マセラティ100」がモデナで開催されることは偶然の一致ではありません。マセラティは75年間もここを拠点としてきました。そして何世代ものモデナの人々が、エネルギーと創造性をマセラティに与えてきました。もちろん有名なドライバーとエンジニアも、この伝説のオーラに貢献してきましたが、数え切れないほどの従業員とメカニックも、この会社のために誇りをもって彼らの能力を捧げてきました。私の祖父と父は、最愛のマセラティが今も存続し、わずかな自動車メーカーしか到達することができない金字塔を本日祝うことができることを誇りに思っていることでしょう。
<お問い合わせ先>
マセラティ コールセンター 0120-965-120