【目次】
食べる前に /第一話 インジェラ(エチオピア) /第二話 サンボル(スリランカ) /第三話 水(スーダン) /第四話 野菜スープと羊肉(モンゴル) /第五話 ジャンクフード(ボツワナ) /第六話 BBQ(香港) /第七話 キャッサバのココナツミルク煮込み(モザンビーク) /第八話 臭臭鍋と臭豆腐(台湾) /第九話 ヤギの内臓(ネパール) /第十話 グリーンティー(パキスタン) /第十一話 タコス(メキシコ) /第十二話 ラーメンと獣肉(日本) /第十三話 自家蒸溜ウォッカ(アルメニア) /第十四話 自家醸造ワイン(グルジア) /第十五話Tamagoyakiとコンポート(ルーマニア)
食べる前に /第一話 インジェラ(エチオピア) /第二話 サンボル(スリランカ) /第三話 水(スーダン) /第四話 野菜スープと羊肉(モンゴル) /第五話 ジャンクフード(ボツワナ) /第六話 BBQ(香港) /第七話 キャッサバのココナツミルク煮込み(モザンビーク) /第八話 臭臭鍋と臭豆腐(台湾) /第九話 ヤギの内臓(ネパール) /第十話 グリーンティー(パキスタン) /第十一話 タコス(メキシコ) /第十二話 ラーメンと獣肉(日本) /第十三話 自家蒸溜ウォッカ(アルメニア) /第十四話 自家醸造ワイン(グルジア) /第十五話Tamagoyakiとコンポート(ルーマニア)
「私は、自宅のテレビから得られる膨大な知識よりも、旅で得られるわずかな手触りにこそ真実があると考えています。
さあ、旅に出よう。世界を楽しもう。そうすればいつか、この魅力的な惑星のどこかであなたにバッタリ会えるかも──
私たちがまだ知りもしないない地球上のどこか、で」
(第十五話 『Tamagoyakiとコンポート』ルーマニアの友人に宛てたメールより)
さあ、旅に出よう。世界を楽しもう。そうすればいつか、この魅力的な惑星のどこかであなたにバッタリ会えるかも──
私たちがまだ知りもしないない地球上のどこか、で」
(第十五話 『Tamagoyakiとコンポート』ルーマニアの友人に宛てたメールより)
【食べる前に】
そこに火がなければ、とてもストーブとは思えないほど古びたドラム缶だった。湯気が立っていなければ、とてもポットとは思えないほど錆びついた鉄の塊だった。そして何より、彼女がそこにいなければ、この家を廃屋と間違えて、私は通り過ぎていたに違いない。
老婆は、出会った二日前と変わらない陽気さで山道を行く私を呼び止め、家の中に招き入れた。チベット語でおそらく何か冗談を言い、声を立てて笑った。いたずらをする孫たちを棒でつつき、愉快そうにこちらを振り返った。薄暗い部屋の片隅では、もう一人別の老婆が目を閉じ、数珠を手にお経を唱えていた。
私は世界地図を取り出して広げ、ヒマラヤ山脈を指さした。いまどこにいるのか、私がどこからやってきたのかを、何とかして彼女に伝えようとした。老婆は、大部分が海の色で塗りつぶされた大きな紙を覗き込み、少しばかり考えてから顔を上げて笑った。それから、手垢ですっかり黒ずんだ茶碗を手に取り、千切れかけたぼろ布でその表面を磨きはじめた――何度も、何度も、丁寧に。老婆は、磨き上げた茶碗をそっと台にのせ、そこへポットの湯を注いだ。光沢を取り戻した真っ白な茶碗を受け取り、私は、軽く会釈した。標高四千メートルの地で沸点に達した一杯の白湯は、乾ききった唇を湿らせ、喉元を滑り落ち、あっという間に胸の奥へ消えた。
地図をしまい、私はバックパックを背負った。ベルトをきつく締め直し、手を合わせ、もう一度、深く頭を下げた。そして老婆の家を辞すると、また、南に向かって山を歩いた。
(写真/中村安希)
老婆は、出会った二日前と変わらない陽気さで山道を行く私を呼び止め、家の中に招き入れた。チベット語でおそらく何か冗談を言い、声を立てて笑った。いたずらをする孫たちを棒でつつき、愉快そうにこちらを振り返った。薄暗い部屋の片隅では、もう一人別の老婆が目を閉じ、数珠を手にお経を唱えていた。
私は世界地図を取り出して広げ、ヒマラヤ山脈を指さした。いまどこにいるのか、私がどこからやってきたのかを、何とかして彼女に伝えようとした。老婆は、大部分が海の色で塗りつぶされた大きな紙を覗き込み、少しばかり考えてから顔を上げて笑った。それから、手垢ですっかり黒ずんだ茶碗を手に取り、千切れかけたぼろ布でその表面を磨きはじめた――何度も、何度も、丁寧に。老婆は、磨き上げた茶碗をそっと台にのせ、そこへポットの湯を注いだ。光沢を取り戻した真っ白な茶碗を受け取り、私は、軽く会釈した。標高四千メートルの地で沸点に達した一杯の白湯は、乾ききった唇を湿らせ、喉元を滑り落ち、あっという間に胸の奥へ消えた。
地図をしまい、私はバックパックを背負った。ベルトをきつく締め直し、手を合わせ、もう一度、深く頭を下げた。そして老婆の家を辞すると、また、南に向かって山を歩いた。
(写真/中村安希)
【プロフィール】
中村安希(なかむら・あき)
ノンフィクション作家。1979年年京都府生まれ、三重県育ち。
2003年、カリフォルニア大学アーバイン校、舞台芸術学部卒業。
日本とアメリカで三年間の社会人生活をおくる。
その後、2年間、47カ国をめぐる旅をもとに書いた『インパラの朝』(集英社)で
09年、第7回開高健ノンフィクション賞を受賞。
他に若き政治家たちへインタビューを試みた『Be フラット』(亜紀書房)がある。
【開高健ノンフィクション賞】 小説のみならず、ノンフィクション文学に大きな足跡を残した開高健を記念して創設された賞。
受賞作に『最後の冒険家』(石川直樹)、『インパラの朝』(中村安希)、『空白の五マイル』(角幡唯介)
『日本を捨てた男たち フィリピンに生きる「困窮邦人」』(水谷竹秀)などがある。
中村安希(なかむら・あき)
ノンフィクション作家。1979年年京都府生まれ、三重県育ち。
2003年、カリフォルニア大学アーバイン校、舞台芸術学部卒業。
日本とアメリカで三年間の社会人生活をおくる。
その後、2年間、47カ国をめぐる旅をもとに書いた『インパラの朝』(集英社)で
09年、第7回開高健ノンフィクション賞を受賞。
他に若き政治家たちへインタビューを試みた『Be フラット』(亜紀書房)がある。
【開高健ノンフィクション賞】 小説のみならず、ノンフィクション文学に大きな足跡を残した開高健を記念して創設された賞。
受賞作に『最後の冒険家』(石川直樹)、『インパラの朝』(中村安希)、『空白の五マイル』(角幡唯介)
『日本を捨てた男たち フィリピンに生きる「困窮邦人」』(水谷竹秀)などがある。